鍋島直正(閑叟)に仕えていた佐賀時代 天保10年佐賀に生まれた邦武は15歳で藩校弘道館に入り、ここで晩年まで僚友となる大隈重信と知り合います。文久3年、24歳の時、江戸への遊学を命じられて昌平坂学問所に学びました。帰藩後は弘道館で教鞭を執りつつ、前藩主・鍋島直正の側近の一人となって佐賀藩の改革などにも携わりました。
岩倉使節団参加と『米欧回覧実記』 岩倉使節団は明治4年横浜を出港し、欧米12ヵ国を歴訪した遣外使節団です。メンバーには、特命全権大使の岩倉具視のほか木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などがいました。邦武もその一員として参加し、帰国後、報告書『米欧回覧実記』を執筆・編修します。これは、訪問した国々の概説、国の制度・産業・軍事・教育・風俗など幅広い内容を網羅し、邦武ならではの多角的な観察力と漢学者としての豊富な語彙によって著されています。
明治維新期、日本のあり方のひとつの指針ともなった岩倉使節団派遣について述べられた本書は、現代の日本にとって参考にもなり、またガイドブックとして旅行者たちの役に立っています。
修史館・帝国大学時代と「神道は祭天の古俗」事件 『米欧回覧実記』を明治11年に刊行した後、邦武は太政官の編修官となり国史の編修に従事します。この機関は後に帝国大学に移管されたため、邦武は教授として教壇に立つ傍ら、史実の考証・実証主義を基盤とした研究を続け、多くの論文を発表します。その中のひとつ「神道は祭天の古俗」が神道家や国家主義者から強い非難を浴び、邦武は帝国大学教授の職を辞することになります。
早稲田大学史学科教授時代 「神道は祭天の古俗」事件以降、邦武は在野の史学者として活躍することになります。明治32年、同郷の畏友・大隈重信の東京専門学校(現・早稲田大学)に呼ばれ、以後20余年にわたって学究生活を送りました。この間「古文書学講義」「日本古代史」など講義を基にした著作を数多く残しました。
晩年に至るまでの多彩な研究 邦武は93歳という長寿を全うするまで学究を止めることはありませんでした。その範囲は、専門の日本史のみならず、科学技術、能楽、宗教など実に幅広いものでした。これらは30歳代に岩倉使節団に参加し、欧米の様々な事柄を見聞し、『米欧回覧実記』を編修したことが大きく影響していると考えられています。 |